不定期のコラムを掲載しています。 一覧はこちら
体罰問題について考える No.1
今年からコラムのコーナーを設けました。
初回は、今、柔道界での体罰問題がマスコミで大きく報道され、スポーツ界に大きな衝撃を与えた体罰について考えてみました。
体罰事態は、良くない事は誰もが周知のとおりです。数十年前は、スポーツの現場では、公然と行われていたように思います。私しも、受けた経験はありますし、その当時は、叩かれる理由があり、叩かれる方も、しかたないと考えていました。団体責任で叩かれた事も多々ありました。
体罰を完全に悪とするかどうかは、今でも意見の分かれる事です。また、体罰の程度も“コツン”と軽く叩くものから、怪我を負わせる程度のものなど、なかなか線引きをすることが難しいことと思われます。
その指導者の感情により左右されることもあり、指導者は強くさせたい故に、つい手が出てしまうことが多いかと思われます。戦後は、軍隊式の影響もあり、上司に服従があたり前の世界でしたが、高度成長期を経てGDP世界第2位(現在は3位)までの経済大国となり、生まれた時から、生活に不自由がなく、テレビ、ゲーム、インターネット等、子供達の環境も大きく変わり、様々な価値観も変化、団体、組織優先から個人の考えが重要視される時代となりスポーツ界もその指導体制に変革を求められていることも事実です。
「愛のムチ」と言う言葉がありますが、そこに愛情があるのかどうかは、中々わかりにくい難しいことです。今回の問題は、氷山の一角かもしれませんが、その根底にあるのが、メダル至上主義と言えます。特に柔道は日本のお家芸として1964年の東京オリンピックから採用された日本のメダル量産種目の一つでしたが、ロンドン五輪では、男子は金メダルゼロ、女子は1個と厳しい結果となりました。そのような中、監督にも焦りがあったのではないでしょうか。
スポーツは勝敗が大変重要視されます。最近のオリンピックでは、勝つためにドーピングの多発や、国籍まで変えてメダルを取るなど、多少行き過ぎているように思われます。勝敗は、人格の形成に重要なことです。勝った喜び、負けた悔しさを経験しながらその両方を味わいさらに向上心、努力を学んで行きます。しかし、あまり行き過ぎると、ストレス過剰となったり、自己中心に陥ります。
今、テコンドー界も含めて、スポーツの意義を再度、考える時期に来ていると思います。特にテコンドー、柔道などの武道は、己に厳しく、人格完成の道として日々修練しなくてはなりません。柔道創始者であり日本最初のIOC委員であった嘉納冶五郎先生は、柔道の最終の目的は「人づくり」であると言われています。また、嘉納冶五郎先生自体は、IOC委員でありながらも柔道のオリンピック参加は望んでいなかったと言われています。武道としての柔道が大切であるとの事を生涯に伝えたかったのではないかと考えます。
「自他共栄」は自分だけが栄えるのでなく相手も同じく栄える事が平和につながると説いています。今の日本の経済界、特に大手と言われている関係者に聞いてもらいたい言葉と痛感します。
県テコンドー協会では、定期的に指導者講習会を実施して、テコンドーとは何か、何が大切なのか、技術指導のみになってはいないか、生徒とのコミュニケーションをとっているか、勝敗のみに一喜一憂してないか等、指導者としての大切な事を学びながら、社会に貢献できる、教育的価値あるテコンドーを目指して役員、指導者一同、日々努力しています。
今回、体罰の問題は、指導者としてキチンと受け止めながら自分の事として考えるヒントを与えてくれました。これも人生の勉強ですね。